「尊厳死法案を提出へ」『東京新聞』『中日新聞』2005/01/03


 自民、公明両党は、末期がんなどで治る見込みのない病気の患者が、自らの意思で過剰な延命治療を中止する「尊厳死」を認める法案を次期通常国会議員立法で提出する方針を固めた。複数の与党幹部が明らかにした。今月中に両党で発足させる「尊厳死ホスピスを推進する与党議員懇話会」で法案化作業を進める。医療技術の高度化や高齢化社会の到来で、延命治療のあり方が問われるようになっている中、国として一定の判断基準をつくろうとする動きは、関係者の注目を集めそうだ。
 法案は
(1)患者が不治で末期状態となった場合、人工呼吸器などで生命を維持するかどうかを患者自身が決める権利を持つ
(2)患者らの意思を受けて過度な延命措置を停止した医師は、法的な責任を問われない
を明記する方向で調整が行われている。(http://www.tokyo-np.co.jp/00/sei/20050103/mng_____sei_____003.shtml→現在はhttp://www.arsvi.com/0p/et-2005.htm、に。)

 日本尊厳死協会が改めて「尊厳死法」を求めるアクションを起こし、一三万人八千人署名の請願書が「尊厳死を考える超党派議員連盟」(中山太郎会長)に提出された。中山会長らは、日本尊厳死協会が作成した要綱案を基に、法案骨子の作成を進めている。今回の国会ではここまでがなされた。法制化のアクションは、今後へ継続される。


 尊厳死法制定を望む動きが、人工呼吸器・人工経管栄養で生きる人々の存在をも射程に入れている、という話を聞き、急速に安楽死尊厳死運動の圧力がリアルに体感され始めた、と個人的印象を書いた(http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20050719/p3)。
 安楽死尊厳死を肯定する主張には、ある簡潔さ、感染力、そしてぎりぎりの場で当事者自身をこそ掴む「力」がある。「自分の家族・友人の尊厳死は否定したいが、自分は尊厳死を望む」というダブルスタンダードも、これと関わる。左翼的な嫌悪からいったん離れ、安楽死尊厳死肯定論を正面から見つめると、それは奇妙に「強い」。少なくとも、そう感じる人々は多くいる。何故だろう。この疑問からまずは始めねば。*1


 大谷いづみ論文から、太田典礼の言葉を引用する。

 老人孤独の最高の解決策として自殺をすすめたい。数年前、本誌で、安楽死論をのせたが、更に一歩進めて、自殺を肯定しよう。……自由思想によれば、自殺は個人の自由であり、権利でさえもある。老人が、もはや生きている価値がないと自覚したとき自殺するのは、最善の社会的人間的行為である。……
 老人はなおる見込みのない一種の業病である。まだ、自覚できる脳力のある間に、お遍路に出るがよい。老人ぼけしてからでは、その考えも気力もなくなってしまい、いつまでもめいわくをかけていながら死にたくないようなことをいうからである。……いちばんよいのは、国外へ出ること、そして未開民族の仲間に入れてもらうことである。パスポートをすてて、いくらかの土産と金をもって行けばかんげいしてくれる。そこで行きだおれになれば、適当に始末してもらえる。私はこれを望んでいる。

 患者の方も脳軟化でいつまでもたれ流しで生きていることは、生の尊厳を傷つけるものとして拒否しようとする傾向にある。ことに立派な業績を残した人々の間に高まりつつある。

 よき死、グッド・デスの確保、苦しまない平和な死。植物人間化して、見苦しい生きざまをさらしたくない。つまり品位ある死を望む、ということ

 劣等遺伝による障害児の出生を防止することも怠ってはならないのである。いま世界の人口過剰が大問題になっており、量より質が重要視され、健康人間、健全社会をめざしているのである。

 重度心身障害者は安楽死の対象にはなりにくいが、その将来を案じて世話している親が殺害するという事件も珍しくない。せめて欠陥児の発生を防ぐ必要があり、先天的欠陥児、極端な未熟児の哺育の限界、染色体異常胎児の中絶、重症精神病者の待遇など、むずかしいものが山積している。脳軟化の高齢者問題もあり、公害、薬害のからんでいる場合も多い。

 老人ぼけがひどくなって意識の表明ができないとか、交通事故や中風などいろんな外傷や病気で脳の障害が起きると心障者となります。肉体の方も甚だしい欠陥のあるのは身体障害として、個人的生活はもちろん、社会生活にも支障を来し、程度にもよるが植物人間のように人格を喪失しているのもあります。……
 ……障害者も老人もいていいのかどうかは別として、こういう人がいることは事実です。しかし、できるだけ少なくするのが理想ではないでしょうか。



 他方で小泉義之はこう述べる。

飢えながらも悟りすました子どもがいるとして、その子に向かって、死ぬ自由があると罪を犯すことなく言えるための条件は何だろうか。簡単なことだ。その子に水や食物を与えることである。その子が心置きなく生きられる条件、衣服や家屋、所得や物品、余裕や余暇、必要なら人工呼吸器や人工経管栄養を与えることである。飢えて死ぬコース以外に、生きるコースを開くことである。その子が元気になった後なら、死ぬ自由があると告げても許されるかもしれない。(「飢える自由? 窒息する自由?」http://www.arsvi.com/2000/0504ky.htm

 しかし、問題は、尊厳ある死を選ぶ人に「生の条件」が与えられても、つまり仮に「心置きなく生きられる条件、衣服や家屋、所得や物品、余裕や余暇、必要なら人工呼吸器や人工経管栄養を与え」られても、その人はなお生存の持続ではなく「自然な死」「尊厳ある死」を選ぶのではないか、という事実にある*2。そんなぎりぎりの場でこそ自己決定はあらわれるからだ。「難病「当事者」が、まさしくアクティブな選択によって、選択的中絶や尊厳死に自らを廃棄してゆく可能性、それを遺伝子レベルで行う可能性は濃厚ですし、米国の「死ぬ権利」運動は、まさしくアクティヴ・シティズンシップの発露そのものです」(大谷いづみ「「問い」を育む」『生命の臨界』ISBN:4409040723)。*3
 これを「贅沢」や「死への逃避」で片付けることは出来ない。何故なら、尊厳ある死を選ぶ・選ばされる人々ばかりか、その周囲の人々、そう批判する連中の多く(自分らは平気で生きられる連中の多く)をも含め、多くの人々を侵食する(優性という)「思想」が問われているから。
 対して、生命を肯定する言葉、存在をそれ自体として肯定する言葉は、あまりに脆弱で、地味で、語られ足りない。そう見える。自分が楽しいと思える瞬間だけを祝祭的に肯定したがる、生の安っぽい謳歌・美学化・和解の気分はあふれているけれども。【後記】一部表現を修正し、引用を増やしました(8月11日)。

*1:星野智幸さんが「ネット自殺志願者を騙って、一緒に自殺するふりをし、殺人を犯すという事件がついに発生した。死にたがっている者を殺すというこの事件は、どことなく、ホームレスを殺す子どもらの事件に一脈通じるものを感じる」(言ってしまえばよかったのに日記2005年8月6日)と書いているのを読み、違和感がある。星野さんにしては、「どことなく」「一脈通じるものを感じる」と曖昧な言い方なのも違和感がある。この文脈ではどう読んでも「ホームレス」は「ネット自殺志願者」「死にたがっている者」と等置されているが、本気で「ホームレスは死にたがっている」と考えているのだろうか(『砂の惑星』ではまさにそういうイメージが描かれていた)。気になった。

*2:例えば松原洋子「「新遺伝学」と市民」(『生命の臨界』所収)によれば――近年の「新優生学」「新遺伝学」では、本人の選択の自由やインフォームドコンセントなどが重視される、という(両者はそれぞれ異なる文脈を持つが、優生学と遺伝学は密接なつながりを持つ)。過去の「全体主義的で強制的」な遺伝学・優生学との違いが強調される。過去の遺伝学・優生学は、強制不妊手術や遺伝的差別につながったが、現在のそれらは格段に科学性を増しており、しかもそこでは強制ではなく個人の自主的な決定を原則とする、だから過去の遺伝学・優生学のような過ちに陥る心配はない、という。松原はそこで前提とされる市民像を「遺伝学的市民」と呼ぶ。「「遺伝学的市民」とは、「新遺伝学」の時代に登場してきた市民像である。遺伝学的市民は、「知る権利」や「選択の自由」を主張し、遺伝学リテラシーをもち、適切なインホームド・チョイスによって新遺伝学が提供するサービスを自由に使いこなせる市民である」。

*3:立岩真也が既に明確にこう書いていた、「ただ、問題はもっと先にもある。あるいはもっと先にいった時により明らかになる。医療における不適切な処置、それによってもたらされる激烈な苦痛等が安楽死に向かわせる主な要因でなくなる時、人は「自らの価値」によって死ぬ。「自らが、自らのこととして、安楽死を望む。ならば、問題はない、文句を言われる筋合いはない。」こう言われた時のことである」(「都合のよい死・屈辱による死」56頁)。