ゴダール『勝手に逃げろ/人生』について、ちょっと思ったこと。



勝手に逃げろ/人生 [DVD]

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 ゴダールの映画『勝手に逃げろ/人生』(1979年)で、これは主要な人物たち(映画監督のポールと、その別れかけた恋人のナタリー・バイイと、娼婦のイザベル・ユペールと、ポールの別れた妻とその娘)がそれぞれに微妙に「人生」のある沈滞した段階に閉ざされていて微妙に「勝手に逃げ」ようとしかけている(でもさしあたり逃げない)気配と微光に満たされた、微妙な閉塞感と微妙な爽快感のブレンドされたヘンな作品なんだけど、娼婦の仕事をしているイザベル・ユペールが、ある初老の客に呼び出されて、男の娘のふりをするプレイを要求されて、30秒後に娘みたいに部屋に入ってこいと言われていったん部屋の外へ出て30秒を待っていると、廊下をふっとイザベル・ユペールの昔の友人が通りかかって、挨拶などしているうちに、偶々ばったり出くわしたその友人から、「あなた仕事してみない?」と別の仕事を紹介される場面があって、あ、今の「人生」から「勝手に逃げ」るってことは、こういうふうにさらっと、顔も名前もよく覚えていない友人に街角でばったり出くわすように生じるのかもしれない、って思ったのだった。その昔の友人から紹介された仕事はかなり怪しい内容だし、結局イザベル・ユペールがその仕事をひきうけたのかどうかも、映画の中では結局わかんないままなんだけど。こういうふうにすうっと何かがひらけていくこともあるのかもしれない。そういうことをどこかで記憶しておく、そういう可能性を大げさでも気負いでもなくどこかに確保しておくこと、それは案外大事なことなのかも知れない。中核のストーリーとは少し違う水準に置かれたこういうさりげないエピソードなどを見つつ、ああ『勝手に逃げろ/人生』って的確な、いい日本語タイトルだなって思う。
 それをいえば、ラストの有名なポールの「事故死」のシーンは、これもなんかあっけない事故でポールはあっけなく死んでしまうんだけど、一挙に色々な出来事が(映画技術的な多様性として)生じていて、ちょっとびっくりするくらい超絶技巧にカッコよくて瞠目する場面で、ポールがガソリンスタンドで車にガソリンを入れようとしていると近くを彼の元妻と娘がたまたま通りかかって、ポールは声をかけ、今までは月1で親子で会っていたけど今後は週1ごとに会おう云々と提案し、妻は気乗りしない様子で「考えとくわ」とだけ答え、立ち去るのだけど、去り際に娘がふっと後ろを向くとポールがまさに車にはねられたところで、そこはストップモーションで描かれ、車に乗っているのはイザベルの仲間の娼婦とその客で、どうでもいいことのようにさっさと現場から逃げてしまい、ポールがなんか詩的なセリフを口にして(たぶん)死に、ポールの元妻はそれを見ている娘に「何みてんの、係わり合いになっちゃだめ」とか言ってすたすた歩き出し、娘が母親のあとを追っていくと何故かそこでは楽団がバイオリンを弾いていて、楽団の前を通り過ぎて母と娘が平然と事故現場をあとにして立ち去っていく場面を背後から長廻しで映して、映画はふっと暗転する。
 『勝手に逃げろ/人生』は、ポールの実存的苦悩とかそういう映画じゃ全然なく、4人の女性達の映画なのは明白で、4人の女性達はそれぞれに「人生」に微妙に閉ざされているように見えるのだけれど、ポールの唐突な「事故死」によってどうも女性達の人生はすうっとよい方向へひらかれるんじゃないか、って爽快な気配と予感が最後の事故死のシーンにはあるのだった。だから最後の母子が父親を無視して事故現場からひっそりと立ち去っていく場面にも、例えば『ウィークエンド』で妻が夫の肉を食べるシーンのようなシニカルな感じは全然なく、イザベル・ユペールが昔の友人とたまたま出会って「人生」の微妙な閉塞感にさらっと、ふっと風穴があく(かもしれない)というような、何かをやり直すとか新しい人生を、とかいった大げさなところもなくて、うきうきしてくる感じがどこかにあるのだった(『勝手に逃げろ/人生』とよく似た物語構造を持つ『パッション』で、2人の女がポーランドを目指して雪道を車で去っていくのを、全てにおいて身勝手でわがままな映画監督が追っかけていく最後の場面は、対照的に、とても粘着質でベタベタして見る者をすごくいやな気持にさせる)。そしてそれは冒頭の、ナタリー・バイイが美しい自然の中を自転車で走り回ったり、牛小屋を訪れたり、なんかよくわかんない競技が行なわれている草原へ昔の知人に会いに行くシーンがひらく開放的な爽快感と、結びついている気がするのだった。*1

*1:冒頭近くの2頭の馬・動物のショットを、蓮実重彦青山真治・古谷利裕さんらがえらく気に入っている。