「痰の吸引」研修について、まとまりもつかない話

 川崎市が「痰の吸引についての基礎研修」を実施する*1。3月5日。委託先は在宅福祉公社。研修場所は高齢社会福祉総合センター。
 例によって目的・意図がよくみえない。問い合わせたら「基本的にはこの研修を受けた人しか、4月以降は、ヘルパーの痰の吸引行為を認めない」との回答。本当かしら。しかし、定員は川崎市全域でわずか30名。しかもこの1回しか実施しないという。このキャパで川崎市全域の関係者を包括できるのでしょうか。わからない。昨年度の知的障害者ガイドヘルパー研修と同じく、最初は「市が主催する、定員30人、一回しかやらない」と断定しつつ、他の法人に「やりたいなら勝手に研修を開いてね」となるのかな。
 まず前提として、現場レベルで、(家族・訪看さんでは足りず)ヘルパーによる痰の吸引を必要としている人は、市内にどれくらい在宅生活しているのだろう。高齢者、障害者(重症心身障害児者、頚椎損傷者など)、難病患者(ALS、筋ジスなど)。各領域でのズレも気になる。実態はどうなんだろう。訪看経験者に聞いたら、高齢の在宅介護現場では吸引を要する人はあまりいないとのこと。でもこれも正式なデータではない。
 厚生労働省は2005年3月24日、ALSの人「以外」の人へのヘルパーによる痰の吸引行為を、条件付きで認めた(医療行為一般が認められたのではもちろんありません、念のため)。医療と福祉の領域の見直しと攻防は、ほんの少しずつ動いている様子。厚生労働省に問い合わせたところ、痰の吸引に関しては、市町村は「行政指導」レベルでしか介入できない(むにゃむにゃ)とのこと。すると、今回の研修に関する川崎市の意図はなんだろう。行政の責任を明確にするつもり?(考えにくい?)。来年度10月以降の重度包括支援その他を見据えて、ヘルパーの調整を図りたいから?(人員を限定して予算を押さえる?)。何となく口を出したいから?予算が余ったので、例によってよくわからない研修をひらきたいの?とか、いかにも行政と事業所の間の連携=信頼関係が構築できていない様子がありあり。今日の午前中は四月からの障害児タイムケアの説明会で、ぼくも聞きに行ったのだけど、なんていうかいつものもやもやな説明会なのだった(後ほど書きます)。市民や支援者は不満ばっかり、と思われるかもしれないけど、せめてもうちょっと内容をきちんと明かしてくれないと、もやもや感ばかりが募る。
 うちの法人のドクターが5日の研修講師の1人なんだけど、その話だと市はALSの人への痰の吸引を中心として今回の研修を位置付けているらしい。ぼくはいまALSの○君を担当している。どうも中心には彼の支援体制の話があるらしい。実際痰の吸引ができないなら、○君のヘルパーに入る意味が全くない。○君について機関的に訪看・ヘルパー間の連携を調整している某入所施設の支援センター職員▲さんに改めて聞いたら、▲さんが障害計画課に、T君の件を結構押したそうだ。ヘルパー用の吸引の研修を開催してくれ、と。すると単純にそういう個別レベルの話なのか。
 でも、その後色々話が複雑になってはきているらしくもある。
 たとえばうちの法人の代表■さんその他も、先日、重症児の現場の分厚いデータを生涯計画課の担当●氏に持っていった。痰の吸引や胃ろう・導尿・在宅酸素・呼吸器その他医療的ケアを生存のために不可欠な人がいるんだよ、と*2川崎市という市町村は、重心入所施設が昨年まで存在しなかったなど重心の施設系支援が薄く、代わりに在宅生活を家族と密着しつつ続ける重症児者が多かった。それは家族への常時介護の典型的押し付けでもあったが、よい部分を見れば、重症児の在宅生活のノウハウや連携の厚みを草の根で押し上げてもきたとも取れる。今年は細山にソレイユ川崎という重心施設が完成して、重心元年と■さんは言っていて、ヘルパーその他による痰の吸引その他の研修を進めることも、その流れの一環としてある。実質的に吸引の「技術」を持っているのは、看護師、元養護学校教諭(養護教諭は療育センター等での医療的ケア研修を行っている)、重心児の元母親、などが今は殆どで、いちヘルパーの技術研修・指導はまだまだこれから。
 ただ、ヘルパーの医療的ケアの問題に関しては、うかつに表面化させるとお互いに危ういグレーゾーンがもやもやとひろがっている。ゆえに交渉も難しくもある。市の人も重心当事者・家族・支援現場の実態をきちんと把握していると思われない。……曖昧づくしで書いたけど、うちの法人でも3月16日に内部ヘルパー向けの痰の吸引研修を実施するし、医行為その他をめぐって高齢者/障害者/難病患者/の間で草の根の連携=押し上げがひろがればいいなあ、とか、月並みな結論に落とすくらいが今の限界。だめだ。

*1:【後註】少し書き直し、改行等を増やしました。17日。

*2:そして家族=主に母親がその消耗を一身に引き受けて・強いられている――ALS者を取巻く介護状況はその極限であり、立岩真也『ALS』を読んでもぼくは「日本での重度障害者・難病者の自立は家族介護の問題を考えないで論じるのはむり」という一点しか確信を持てなかった。その水準を甘くみて「生の無条件な肯定」を無遠慮に述べることは自分には出来ない。