『ロスジェネ芸術論』(1)



 文芸誌『すばる』(2008年8月号)に、「『ロスジェネ芸術論』(1)――生まれてこなかったことを夢見る」という文章が掲載されます。不定期掲載の予定です。
 希望がないばかりか絶望すらできない、むしろ希望を差し出す他人の手を――そして何かに期待しては失望することを反復し続ける自分の心を――こそ最も憎む、そういう貧困のことを書きました。そしてそういう貧困に立ち向かう芸術の可能性をアナクロニスティックに探りたい、と書きました。
 原稿を書き終えたのは2ヶ月以上前のことですが、その後、秋葉原の無差別殺人が起きました。いま自分で読み返しても、複雑な気持ちがします。もし加藤君が事件を起こしていなかったとして、『すばる』を手にし、僕の文章を目にとめることがあったろうか。万が一目にとまったとして、彼の心に何かが響くことはあったろうか。もちろん、目にとめたはずはなく、何かが心に響いたはずはありません。でも、そういう馬鹿げたファンタジーが、今は頭から離れません。そしてそういうファンタジーをむしろ徹底化する形で、続きを書ければ、と自分の中の勇気を点検しています。


 ついでに、杉田のコメントを含む『東京新聞』(6月27日朝刊)の記事を貼り付けておきます。

こちら特報部 
止まらぬ連鎖 ネット犯行予告(下) 『共鳴少なくない』『釣り』も空振り『克服は人との触れ合いだが…』
(2008.06.27 朝刊 29頁 特報2面)


 相次ぐ便乗的な事件予告について、ネット事情に詳しいフリーライターの井上トシユキさんは「事件に刺激されたガス抜きの一種」とみる。
 「現状へのムシャクシャした感覚をコップの水に例えると、それが事件を機にあふれた感じ。これまで似た書き込みをしていた人物も多く、捕まるか否かスリルを楽しんでいる節もある。ただ、これだけ増えてしまうとなくすのは難しい」
 ちなみに今回の事件への反応では、同情や共感も少なくない。インターネット上の巨大掲示板2ちゃんねる」をみても「加藤智大は神!」「加藤智大が死刑にならないようにするには」「加藤智大は英雄です」といった書き込みテーマのタイトルが並んでいる。
 その加藤容疑者は事件前、一日数十回、携帯サイトに書き込んでいた。理由について「孤立感を紛らわせるため」と供述しているという。
 ネットでは極端な意見などで他人の書き込みを促す「釣り」と呼ばれる手法があるが、それに近い記述もあった。だが、それも空振りしていた。
 皮肉にも、事件後に彼はネット上で注目の的になっている。そこには「非コミュ(コミュニケーションがない)」「オレよりリア充(現実生活が充実している)」といった評論が続いている。
 中には「加藤の存在が日に日に大きくなる」「日記代わりのあの掲示板を読むと胸が苦しくなる」「加藤ごめん」といった書き込みもある。
 「フリーターズフリー」誌の編集者で介助労働者の杉田俊介さんは「彼の膨大な書き込みについて、編集の仲間と話したが、皆、その当たり前さに驚いた。孤独や派遣労働のことなど、どれも異様ではない」と話す。
 「経済的な貧困だけでなく、人間関係など複合的な貧困が積み重なった過程が書かれていた。それが彼を詰め将棋のように追い込んだ。それに共鳴する人々は少なくないはず。それが事件予告の連鎖にも影響している」
 杉田さんは「家庭内暴力、引きこもり、リストカットといった自傷行為など、これまでは内側に向けられた憤りがついに外に噴き出した。ダムが決壊したかのようだ」と事件とその周辺を語る。
 一方、加藤容疑者と同世代のメディア評論家、荻上チキさんは「格差問題やインターネットと関係なく、大きな事件の後にはこうした模倣が反復的に起きる」と話す。
 「米国での炭疽(たんそ)菌テロの直後、小麦粉などの白い粉を送り付ける事件が多発した。それと比べてもネットへの書き込みは簡単で、彼らは数十人が反応してくれれば満足。彼らがメディアのお祭り騒ぎに乗っかることは止めようがない。格差などとの関連は事件の一側面ではある。しかし、過大な意味付けは避けるべきだ。それが便乗組を抑えることにもつながる」
 いずれにせよ、ネット世界との関係を考えざるを得ない今回の事件と予告連鎖だが、団塊世代である作家の小嵐九八郎さんは「直(じか)にけんかをしたり、理解し合うために人間には長い経験と記憶がある。それがネット世界では必要とされない点が底にある」と指摘する。
 「共同体(実際の人間関係)が薄くなり、その分、自意識が過剰に膨れ上がる。だからキレる。人と直接触れ合うしか、それを克服する道はないのだろうが、それも分かっていて現状がある。厳しい社会になってきた。正直、ニヒリスティックな気分に襲われている」