『ミスティック・リバー』――それは本当に「どうしようもない」のか?(1)



 人生の「どうしようもなさ」とは何か。
 ずっとそのことを考えてきた。


 ショーン・ペンケビン・ベーコンティム・ロビンスの少年時代。彼らが路上で遊んでいると、この世界そのもののような、理不尽な暴力が訪れる。
 二人の男の手で、子供時代のティム・ロビンスは誘拐・監禁され、暴行を受ける。三人の中で彼が連れて行かれたのは、彼の自宅が犯行現場からたまたま遠かったからだった。特別な理由はない。少年の外見や態度が気に入られたから、でさえないのだ。他の子でもよかったが、たまたま彼が犠牲になった。しかし、その偶然=暴力が、彼らの後の人生を決定付ける。一度生じた出来事=傷は、回復も快癒もせず、二度と元に戻らない。時の流れが緩和してくれたかと思った時、まさにその時、傷はいっそう痛みと出血をむき出しにする。未来へのどんな予測や心構えによっても、人は次の暴力=悲劇を避けられない。偶然の悲劇を克服する試み自体が、別の偶然的偏差を連鎖的に生じさせ、状況をいっそう重苦しく、取り返しがつかなくしていくからだ。


 古谷利裕の精緻な分析がある(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/yo.35.html#Anchor736061)。この分析は素晴らしい。まずそちらを読んで下さい。
 古谷氏はこの映画においては「互いに見通すことの出来ない不透明な存在である複数の人物の重なり合いが、偶然にも出来事を発生させてしまうのだ」と述べ、映画の中で唯一「自発性」を持つのは、ショーン・ペンの奥さん(ローラ・ジニー)だ、と言う。生じる全ての偶然性(の連鎖)を美しい「家族愛」の物語に回収し、ショーン・ペンによるティム・ロビンス殺害を事前に知りながら見過ごし、彼の殺人を許そうとする彼女の存在はひたすら「怖い」。
 しかし、ぼくは少し違う印象を受けた。
 この作品を単に「偶然の連鎖」が強いる「どうすることも出来なさ」によっては考えられない、と。


 大切なのは、3人のその後の人生の温度差を見ること、傷の「後」の日常を彼らがいかに生きたか、自分の傷に向きあい魂に書き込んだか、その位相差/断層を見ることだろう。
 それらを「三人を巻き込んだ一つの悲劇」と見ることは出来ない。
 ぼくは『ミスティック・リバー』に対し一つの違和を感じた。各人が選び取り/強いられた生の分断=すれ違いを、この作品が、むしろ「互いに見通すことの出来ない不透明な存在である複数の人物の重なり合いが、偶然にも出来事を発生させてしまうのだ」という単なる受動的偶然の連鎖(どうしようもなさ)へと回収してしまっているように見えたからだ。本当に「許されていることはただそれをひたすら「受け取る」ということだけ」か。このどうしようもなさは本当にどうしようもないのか。その仕方のなさを自ら選んだのは、本当に奥さんのローラ・ジニーだけか。自分から何かを見まいとし、事件をジェットコースター的に悪質化させた「自発性」と相互癒着が、他の人々をも捉えていなかったか。
 図式化すれば、ショーン・ペンは殺人も厭わない「加害者」のポジションにあり、ケビン・ベーコンは刑事の職務以外には足を踏み出さない(子どもと出て行った奥さんへの消極的態度にもいえる)「傍観者」のポジションにあり、ティム・ロビンスは「被害者」のポジションにある。
 何ものかに娘のケイティーを殺害されたショーン・ペンはこう言う。


 《不思議だ、人生は何気ない選択で全てが変わる、
 ヒトラーは堕胎寸前に母親が思いとどまった、
 俺がデイブの代りに(誘拐犯の)車に乗っていたら、人生は変っていた、
 一八の時、最初の妻との間にケイティーができた、
 俺が(車に)乗っていたらケイティーは生れず、殺されることもなかった》


 しかしこの言葉は、自分が手を染めた何かを洗い流している。
 事実を細かく見てみよう。ショーン・ペンは、最初の奥さんと一八歳の時結婚し娘のケイティーが生れるが、その後強盗の罪で二年間刑務所に入る。彼が刑務所にいる間、妻はガンで死ぬ。彼が逮捕されたのは、仲間だった「ただのレイ」が密告したからだ。出所後ショーン・ペンは、妻の死に目に会えなかったことを恨み、「ただのレイ」を数人の仲間と共に殺害する。
 現在、ショーン・ペンは娘の死を受け入れられず、激しく慟哭し、自分の手で犯人に復讐しようとする。そして犯人と間違われたのが、ティム・ロビンスだった。確かに、幾つかの偶然=たまたまが重なった結果、ショーン・ペンティム・ロビンスが娘殺しの犯人と勘違いしても仕方のない状況にはあった。
 しかし、ショーン・ペンの脳裏を、「あるいは自分がかつて「ただのレイ」を殺してしまったからこそ、自分の娘が殺されたのではないか」という疑いが生じた形跡はない。ここも細かく見よう。ケイティーは実は家族に内緒で、ラスベガスに駆け落ちしようとしていた。ショーン・ペンは、娘が殺害される前日、娘の目の中に「二度と会えないような」気配を感じる。ケイティーの恋人ブレンダンは、「ただのレイ」だ。ブレンダンには言語障害(?精神的なもの)のある弟がいる。雑貨屋を営むショーン・ペンは、ブレンダンとその弟を毛嫌いする。彼らの父親を自分が過去に殺した点もあったろうが、娘とブレンダンの関係を直感していたのかも知れない。結論からいえば、ケイティーを拳銃で殺した犯人は、ブレンダンの弟(とその友人)である。その動機は、彼が兄のブレンダンを性的に愛していたからとも、別に理由はないとも、どちらにも取れるようになっている。しかし、ブレンダンの弟がケイティーを殺害した拳銃は、「ただのレイ」が強盗事件のあと屋根裏に隠していたものだ。すると、仮に「ただのレイ」が今も生きていたなら、拳銃はその息子(ブレンダンの弟)の手には渡らなかったかもしれない。そして、ショーン・ペンが、自分が殺した「ただのレイ」の息子であるブレンダンを毛嫌いしていなかったら、あるいはケイティーとブレンダンはラスベガスへの逃避を考えなかったかもせず、そうすればケイティーはあの日あの場所で殺害されなかったかも知れないのだ。


 もちろん「IF」は空しい。「どうしてあの時○○しなかったの?」と、傷ついた他人を二重に傷つけることは、この世で最悪の暴力の一つでもあるだろう。それはわかる。
 でも、一つ言えるのは、何らかの癒しがたい傷を負った人間は、他人から難詰される前に、「悲劇は自分のせいで起ったのではないか」と誰よりも苦悩し、その傷にうめき続ける、というありふれた事実だ。
 『ミスティック・リバー』においてショーン・ペンの心性は、「受け入れられない別離の経験があると、誰かを殺害することで自分の傷と罪を洗い流そうとする」傾向にある。最初の「ただのレイ」の殺害に関しては、彼は妻の病死に耐えられず、その罪を全てレイに負わせ、これを殺害することで怒りと悲痛を鎮める――自分が強盗などに手を染めずまっとうに生きていれば刑務所に入ることもなく、妻の死に目に会えないこともなかった、とは彼は決して考えないのだ!
 そして現在のティム・ロビンス殺しに関してはこうだ――彼は確かに娘のケイティーの死に耐えられなかった、でもさらに耐えられなかったのは、娘が自分の意志で父親を捨てて遠くへ去ろうとしていた、という別離の事実の方なのだ。
 最初の妻が病死した時、彼は自分と娘が宇宙でただ二人だけ取り残されたような孤独感を味わう。ということは、地球上の他の全員が彼を見捨てても、娘だけは彼を見捨てない、と信じていたということだ。彼のそんな思い込みは、他の誰でもなく、娘のアクションで粉々に打ち砕かれる。彼はこの別離の孤独を、娘を殺した犯人を自分の手で殺す、という目的を追い続けることで忘れる。忘れようとする。この能動的な殺人は、過去の殺人の正確な反復であり、彼が自分の手で、自分の意志で能動的に選び取ったアクションなのだ。これをたんに「偶然(の連鎖)」で片付けることは出来ない。
 そしてショーン・ペンティム・ロビンス殺しを許したのは、妻のローラ・ジニーだけではない。彼女が「家族愛」によってショーン・ペンの能動性=やってしまった事実を許したとすれば、常に控えめな傍観者にとどまるケビン・ベーコンも、その「友愛」によってショーン・ペンを許している。
 これは難癖だろうか。彼が自覚的に「傍観」と「友愛(見なかったことにすること)」を選択したことは、ラストのパレードの場面ではっきりしている。ショーン・ペンを逮捕せず、また行方不明のティム・ロビンスを探し続ける奥さん(この人こそがこの物語で最大の犠牲者かも知れない)を放置したままにする。妻と子供と共に、最後まで「傍観者」にとどまることを自ら選び取る。どんなにいやな気持になっても、凝視すべきは、ショーン・ペンの「間違った正しさ」(の反復)が、彼の自己免罪的な狂信のみならず、周囲の人々の「家族愛」や「友愛」の相互浸潤によって成り立っている事実だ。


 そしてこのことは、これが『ミスティック・リバー』の最大のクリティカルポイントになるが、実は、「被害者の被害者」ともいえるティム・ロビンスにも当てはまらなかったろうか?
 この暗い問いをつきつめてみよう。
 (続く)