『ミスティック・リバー』――それは本当に「どうしようもない」のか?(2)



 見てみよう。
 ティム・ロビンスは、少年時代に誘拐・暴行されたうえ、その後の人生でも風評=二次被害に苛まれ(ケヴィン・ベーコンの同僚の刑事は、偏見的に彼をケイティー殺人の犯人と疑う)、傷から逃れることが出来ない。
 人は内的トラウマは消えないというが、現実の側に傷の忘却を許さない種々の強制力があるのは明白な事実であり、ティム・ロビンスの人生も、後者の匿名かつ散漫な社会的暴力=風評被害がもたらした疲弊や諦念と切り離せない。この意味で彼は二重の被害者であり、しかもその事実と真っ直ぐに格闘し、まっとうに生き直そうとする努力にも関わらず、いやその努力ゆえにさらに次の暴力を、加害と被害を連鎖させ、自分を追い詰めていく。
 四日間に渡り暴行を受けた過去の記憶について、彼は、昔の自分はあの穴ぐらの中で死んだ、そして別の自分として外に出てきた、自分はその時から「吸血鬼」になってしまった、一度「それ」が体内に入ると二度と出て行かない、と妻に告白する。彼は結局、ケイティーが殺害された同日、道端で車の中で少年を犯していた男を殴り殺してしまう。ティム・ロビンスは男にナイフで逆襲され、血まみれで夜中に帰宅するが、妻セレステは、夫をケイティー殺しの犯人と誤解し、ショーン・ペンに密告してしまう。
 夜の川辺で、ショーン・ペンがゴロツキどもと共にティム・ロビンスを追い詰め、「ケイティーを殺したのはお前だろ」と問い詰める場面は、もっともまがまがしい緊張感、凄まじく邪まな暴力が発動する《現場》を、残酷かつ克明に描く。
 追い込まれたティム・ロビンスは、自分が犯してもいない犯罪を俺がやったと自白し、混乱に満ちた口調で、その理由まで丁寧に説明する、バーで幸福そうに踊る彼女の姿を見ていたら、「青春」を思い出した、自分が経験できなかった失われた「青春の夢」を思い出した、だからやったんだ、夢の中でケイティーを殺してしまったのだ、と。彼はその場逃れのために告白したのではない。生き延びようとしたのでさえない。「俺がやった」は、どんなレトリックでもなく、彼の、彼の内的な《真実》なのだ。その真実の叫びを受けて、ショーン・ペンのナイフが彼の腹をえぐる。ティム・ロビンスは川辺に倒れる。家族とやり直したい、死にたくない、と哀願しながら彼は死んでいく。その死体を、彼が世に存在したという記憶を、ミスティック・リバー=神秘の河が、忘却の彼方へ押し流していく。


 先に「どんなにいやな気持になっても、凝視すべきは、ショーン・ペンの「間違った正しさ」(の反復)が、彼の自己免罪的な狂信のみならず、周囲の人々の「家族愛」や「友愛」との相互浸潤によってはじめて成り立っている点だ」と述べた。
 古谷氏は、ショーン・ペンの行動が「迷い」と「逡巡」に貫かれていることを強調し、「常に迷いと共にあるショーン・ペンの弱さに比べ、圧倒的に強いようにみえるこのローラ・リニーの確信に、一体どのように対処すればよいというのだろうか」と述べる。確かに彼の行動には迷いが常時付きまとう。決定的な別離(前妻の病死/娘との二重の離別)の体験を彼は「見たくない」「受け入れたくない」が、それは人間の生存の条件としてある迷いであり、これをただちに責めることは誰にも出来ないし、迷いなき「正しさ」よりも絶対に先の次元にある。しかしそれでも、ぼくらがさらに痛みの中で凝視する他ないのは、この「迷い」こそが致命的に邪悪な暴力を噴出させる、させてしまう、という事実の残酷さなのだ。
 しかもこの邪悪さを、周りの「愛」や「友情」や「傍観」が、事後的に補完していく……。
 必要なのは、「迷い」と「正しさ」が循環的に《暴力》を抽出し、高密度化し、結晶していく光景を――ぶざまな泥塗れの「迷い」を自分が繰り返し、繰り返させられながら――捉えることだ。
――でも、それだけではない。


 この先に本当の悲惨さがある。
 人生的にとことん追い詰められた人間の言葉は、どうしようもなく支離滅裂に錯乱し、その論理性を毀損されてしまう。因果は辿れないし、現実と夢が入り混じる。被害の事実を他人に説明しようとしても、うまく説明できず、かえって「虚偽では?」という周囲の疑いを募らせる。ティム・ロビンスは、過去の誘拐・監禁の「傷」に関して妻に「自分は穴ぐらから出てきた時、別の人間として生れ変り、吸血鬼になってしまった」と述べ、そのことでかえって妻の疑いを決定的に深めてしまうが(しかし、このメタファーは、彼が掴んだぎりぎりの内的な《真実》なのだ!)、同じくショーン・ペンの前でも破綻した内容を喋り、かえってショーン・ペンの怒りを昂じさせてしまう。司法的な論理や証拠を常に要求する「正しさ」は、こんな矛盾した言葉と精神をさらに容赦なくおいつめ、何重にも叩き潰すだろう。
 しかし――しかし、もしも「どんなにいやな気持になっても、凝視すべきは、ショーン・ペンの「間違った正しさ」(の反復)が、彼の自己免罪的な狂信のみならず、周囲の人々の「家族愛」や「友愛」との相互浸潤によってはじめて成り立っている点だ。」とすれば、さらに一歩、くらい穴ぐらにぼくらは降りて暗闇の底を凝視しよう、凝視しないといけない。
 ティム・ロビンス的な「被害者の被害者」を強いる混乱と痛みが、それさえもまた、あの《暴力》の邪悪さを補完し、より強化してしまうのだ……、と。
 つまり、ティム・ロビンスもまた「俺が殺した」と「告白」をしたその瞬間に――こんなことを口にする権利がぼくごときにあるのか?!――《暴力》の一端をかつぐ共犯者となってしまったのだ……、と。

 ティム・ロビンスは、仮にあの場面で「殺したのは俺じゃない」「違う」と言い続けても、たぶん同じように殺されていただろう。死の運命は動かせなかったろう。
 だとしても、それでもなお彼が「違う」とあの場面で抵抗し続け、主張し続けることが出来たとすれば……、その《否定》とは何だろう?
 自分の死の先にひらかれる否定とは何だろう?
 何がその《否定》の言葉を真に力づけるんだろう?
 違うものは違う、と言い続けるにはどうすればいい?
 本当の肯定のための本当の否定とは何だろう?


 ……自分にそんな資格があるのかという疑いと共に(いや、無理だろう)、ぼくは、『ミスティック・リバー』のそれとは異なる《自発性》のポテンシャルがあるはずだ――と、どこかで信じている。