わがまま?

 http://d.hatena.ne.jp/jasmine156/20050903を読んで。
 返信にはならないけど、少し思ったことを書きます。


 あるひとのある行動が、「障害特性」か「わがまま」か。変えられない・変える必要のない・変えるべきではない部分か、変えられる・変えたほうがたぶんいい・変える必要のある部分か。
 こういう問い方ではなくても、知的ハンディ・自閉症のひとの生活支援を行うひとが、必ず突き当たる問題の一つだと思う。


 まず知的障害のひとと自閉症のひとで分けて考える部分が必要だと思うが、ここでは自閉症のひとをベースに考える。
 「自閉症のひとのこだわりは、わがままとは違う」と言われる。完全に正しい。手が動かない人に手を動かせといっても、そんなことはできない。自閉症の場合、この「能力的にできないこと」が他人の目に見えないから、様々な誤解や判断・解釈の難しさが生じる。これも当然踏まえておくべきだろう。
 しかし、「自閉症のひとには、わがままということはありえない」とまで言い切るとすれば、これはどうか。どうなのだろう。わからない。ただ、違和感は残る。「わがまま」がない人なんているだろうか。それは誰にでもある部分であり、あっていい部分ではないのか。素朴にそう感じたりもする。「わがまま」という言い方が悪いのかもしれない。動かせない障害特性の部分ではなく、動かせる部分、柔軟になりうる部分、けして社会的によいとはいえないから変えられるなら変えたほうがいい部分。そういう部分が、自閉症のひとにもあるような気は個人的にしている(おそらく受容的交流療法も、機械的受容と自己決定尊重を述べていない)。
 例えば自分の知人である自閉症のひとは、主にケンタッキーフライドチキンばかりを食べる。あるいは、じゃがりこを夜通し延々と食べるひともいる(二人ともかなりの肥満)。偏食とかこだわりとか言われる。自閉症のひとは味覚などに感覚の奇妙さ(極端に過敏だったり、極端に鈍感だったり)があるといわれ、たとえば食卓にのぼるヴァラエティゆたかなおかずを前にすると混乱する場合もあり、だから特定の食べ物のみを食べるひともいる。安心できる味だから。
 本人の意志を、自己決定を尊重し、これを完全に受容する。肥満する権利、自由はある。それはそうだと思う。
 ただ、本当にそれが「自己決定」なのか、本人が心から望む行為なのか、という不透明な部分はなお残る。
 「こだわり」という行動に関しての理解・解釈にもよるだろう。
 かれらはそれを好きでやっている、あるいは少なくとも自分の気持を落ち着けるためにやっているのか。周囲への不安や迫害の感覚から、どうしようもなくやっているのか。前者なら、自己決定の十全な尊重・受容と、心地よい環境の整備が大事になる。でも後者なら、それをたんに自己決定だからと放置し続けるのは、かえって必要な手助け・介助を支援者側が行っていないことを意味してしまうかもしれない。


 受容か介入か、という言い方はたぶん間違っている。ニセの問いだと思う。徹底的な母性的愛情と受容を通した介入もあり、きちんとした目的と倫理観をベースに介入=指導し続けるタイプの人格の受容もきっとある。ただ、支援者が自分勝手にやり方を固定し、対応法をオートマティズム化し、押し付ければ、それは本当にひどい暴力へ堕する。それだけは間違いない。