『そして殺人者は野に放たれる』

 【後記】一部、表現を修正しました。


 「弟は理不尽に殺され、兄は長く精神分裂病を罹患したまま」という日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』を読む。異様な迫力にみちている。


そして殺人者は野に放たれる

そして殺人者は野に放たれる

 主張されるのは「単純」なことだ。
 「精神障害者」と「精神障害犯罪者」を絶対に混同してはいけない。刑法39条1項(心神喪失者の行為は、罰しない)は、精神障害者などにレッテルを貼るものであり、むしろ差別的である。39条1項は即刻廃棄すべきである。精神障害犯罪者に対する「刑罰ではなく治療が必要」「原因は社会にあり、かれもまた被害者」というタイプの良心的な判断こそが、差別そのものだ。にもかかわらず、日本の司法・精神医学界は、凶悪犯罪者を、39条1項を理由に「責任無能力(心神喪失)」として無罪放免、あるいは減刑し続けてきた。日本では、精神障害殺人者のうちおよそ85%が不起訴処分となる。日本には精神障害犯罪者を処遇する法務省管轄の施設がひとつもない。対して、犯罪被害者への配慮や保障は伝統的に全く不十分なままである。……。


 かぎりなくむずかしい問題としかいえない。でも考えないわけにはいかない。まず意見を述べる。批判その他をお待ちする。


 ぼくも、精神障害があってもなくても、犯罪の責任はひとしく平等に問われたほうがいい、と今は考える。でも、その「平等」はどこに求められるのだろうか*1
 芹沢一也『狂気と犯罪』には、精神障害当事者の次の言葉が紹介されている――「どうして私たち精神の病がある者だけを特別に扱うのか。ほかの病気と同じにしてほしい。政府案(心神喪失者法案のこと)は、法の下の平等に反している」、精神障害者はいまは罪を犯しても裁かれる権利がない、自分が罪を犯したら治療を受けながら裁判を受けたい、と(朝日新聞平成14年5月31日)。
 実際、ろうあ者に関する「40条」(ろうあ者の行為は罰しない、あるいは減刑する)は、1995年に当事者団体の力もあって削除されている。


 ただ、『そして殺人者は野に放たれる』に感じた違和感がある。
 それを少し書いてみる。


 芹沢一也は、精神障害者による犯罪の問題、刑事裁判の問題が、明治時代から、法律的なものと(精神)医療的なもののせめぎあいの中にあったことを論じる。そして「精神を病む人間は「法の世界の住人ではない」」と見なされてしまうことは「歴史的にかたちづくられたものであって、自明なものでは決してない」(同書)。
 いりくんだねじれがある……。
 精神障害者は「法律」の世界から排除されている。犯罪をおかしても裁かれることがないのは、そのためだ。現行刑法では、精神に障害があり責任能力がないとみなされた人間は、裁判を受ける機会と権利がなく、精神保健福祉法にもとづいて二人の精神科医が「自分や他人を傷つけるおそれがある」と判断すれば、強制的に精神病院に収容される(措置入院制度)。「一般市民」は、このことを「精神障害者は特別扱いか」「殺された方は殺され損か」と憤り、精神障害者への不安と怖れをつのらせる。
 なんという奇妙なはなしだろう。
 しかしことは39条1項の廃止ではなく、保安処分的な方向へ舵をきりはじめる*2。平成13年の池田小学校の宅間守による犯罪などを機に、「精神病者=凶悪犯罪者」というレッテル的な危機感が高まり、紆余曲折を経て、平成15年7月に「心神喪失者等医療観察法」(「再犯のおそれ」がある精神障害者を強制的に社会から隔離する法律)が成立する……。精神障害者をめぐる法律の制定は、ひろくメディアをまきこむ社会的事件と特に深く結びついているようだ、相馬事件のあとに警視庁の「精神病者取扱心得」(明治27年)が定められ「精神病者監護法」(明治33年)が成立し、「ライシャワー事件」(昭和39年)のあとに「精神衛生法」が改正され実質的な保安処分が確立されたように。


狂気と犯罪 (講談社+α新書)

狂気と犯罪 (講談社+α新書)

 思うのだが、「精神障害者」と「一般市民」*3の出会いが、なぜしばしば「犯罪」という出来事の中でのみはじめて目にみえるものとなるのか。
 これは野宿者襲撃の問題(野宿者と若年層が暴力という形で出会う)ともつながるが、逆に言えば、ふだんの日常生活の中で、両者の生活ゾーンが分断されているからかもしれない。実際、日本はまだまだ、「健常者」が普通のライフコースで生きる限り(家族や親類にいない限り)、障害者と深いかかわりがないまま生きられる社会構造になっている、と感じる。精神障害者と日常的にふれあう機会をあまりにも持ちえない。日本の精神障害者は258万人だという(平成17年度『障害者白書』)。人口1000人あたり21人。では彼らはどこにいるのか。例えば「収容」されている。「精神病院列島」日本は、絶対数・人口比ともに、世界最多の精神障害者入院数を持つ国であり(経済協力開発機構の調査)、平均在院日数も長く、またいわゆる「社会的入院」(病状が安定し入院の必要がなくても、退院後の条件が整わず、入院生活を続ける人々)の患者が全国で7万人*4いると言われる。


 当事者が生きる「生活」のありかたの全身を問わず、刑法39条という切断面だけで精神障害者犯罪の問題をみれば、ことの本質をぼくらは見損ないはしないだろうか。素朴に、あらためてそう思うのだった。
 障害者が犯罪に手を染めるのは社会が悪いからだ、加害者も被害者だ、と言いたいわけではもちろんない。それが時に「良心」を装った最悪の差別に転化する事情は既にふれた。ただ、極端ないいかたをすれば、精神障害者が「社会」から排除され、「法」からも排除され、なんらかのトラブルという形で「目にみえるもの」となり、それゆえふたたび排除されていく……というこの悪循環をたちきらない限り、ぼくらは、「精神障害があろうがなかろうが、犯罪者はたんに犯罪者だ」という言葉を、本当の意味で、こころから言い切ることができないんじゃないか。犯罪被害者とその家族の憎悪と終らない悲痛を、世の理不尽をわずかずつであれ改善していく一歩とならないのではないか。今の自分には、少なくとも、それを屈託なく言い切る資格がないと率直に思う。グランドデザイン・自立支援法の「精神障害者を一般就労へ」という流れの中で、当事者たちは、いやおうなく、そんな「悪循環」の根深さとやりきれなさにあらためて直面を強いられるだろう。
 

 芹沢は、呉秀三の次の言葉を引き、「すでに百年前に、日本の社会は同じ問題に直面していた」と述べる。

 甚しきは殺人放火するものさえ、精神病のためなれば、無罪として放免せらるる。しかるに放免後は置き所がなく、遣り放しになっている故にまたまた犯罪をする、また放免してはまた犯罪をするということになる。危険至極ではないか。法律の上で宥しておいてしかもこれを取締る法や施設がないとは驚くべき事である(「何故に癲狂院の設立に躊躇するや」)

 殺人者が放たれる「野」とはどこか。誰が誰を野に放っているのか。この悪循環の歴史への「驚き」をかたく手ににぎったところから、というか自分が本当の意味でそれに「驚きえない」ことへの違和感を可能なかぎり忘れないところから、ふたたび歴史のくらがりと現在の生に目を凝らしてゆこう。まだまだ君ごときには何もわかっていないのだ、君が属する「現実」以外の《現実》をよくみてみろ、という声に耳をすまそう。

*1:【後記】刑法39条1項を廃棄することは、「精神障害者が裁判を受ける機会と権利を得ること」と等価なのだろうか。そして何より、それが犯罪被害者家族にとって十分な保障への第一歩たりうるのだろうか。廃棄するとして、たんに廃棄しただけで万事いいのか。繊細な問題が山ほどあるだろう。

*2:日垣隆は、心神喪失者等医療観察法を「二重三重に間違い」と言い切っている(「あとがき」)。

*3:もちろん障害者も「一般市民」ではある。しかしあえてこう書く。

*4:10万人という人もいる。20万人という人もいる。