仲俣暁生さんのエントリー

 「人的資本」という概念で、福祉国家の解体後における新しいセイフティネットを構想する稲葉振一郎の『「資本」論』に対して、以前『エフェメーレ』という同人誌で私にインタビューをしてくれたことのある杉田俊介くんが憶えたという「怒り」の意味をずっと考えていて、補助線として稲葉さんの『ナウシカ解読』を再読したり、小熊英二の『〈日本人〉の境界』を読み返したりしていた。
 社会学という方法だけでは、現代社会が抱える問題は指摘できても、解決の処方箋までは指し示せない、ということなのか、稲葉振一郎は〈経済学〉、小熊英二は〈歴史学〉を補助線として社会学に添えている。二人の仕事ぶりは、表面上はクールで無機質にさえ思えるのに、稲葉さんが向うのが〈倫理〉や〈正義〉への考察で、小熊さんの場合は〈心情〉であるというのが面白い、と個人的には思っている。
 だが、二人とも、著述のスタイルや手つきのクールさ(ある意味での「冷たさ」)の裏にある熱意みたいなものが、著作の中で十分に発揮されているとは言えない(ひとことで言えば、器用でない)。そのため、同世代以外には、多分に誤解が生まれやすい余地があると思う。これはまったく他人事ではなくて、彼らと同世代である私自身が、しばしば指摘されることでもある。多分、そのわかりにくさは、八十年代という無惨な時代を生きてきたために刻印されたものじゃないか。その意味では、ずっと若い世代である杉田さんが稲葉さんに対して感じる怒りなり違和感なりにも、根拠はあるのだと思う。それを私も、稲葉さんの同世代の人間としてともに引き受けたいし、考えたい。
 たとえば、今回の選挙で小泉純一郎を支えた人たちの求めた論理はその逆だったのではないか、と思う。手法のもつ見かけ上の「熱さ」と、それによって現実に進められる「冷徹な」論理の遂行という、二つのことなる要素を意識的に混同させること。今回の選挙で小泉を勝たせたのは、そのような混同を起こさせたプロパガンダの妙だった。
 でも、「改革」を叫ぶ首相の「熱さ」に期待をかけた人間は、その熱さの裏にある論理(合理性)の冷たさが自分自身にも向うのだと知ったとき、どこまでそれに耐えられるだろうか。それとも、そのときはまた、別の「熱さ」に飛びつくのだろうか。(http://d.hatena.ne.jp/solar/20050928/p1

 感じた違和感を少し言葉にする。
 仲俣さんは言う――、「80年代」的な感覚を持つ人の場合「クールさ=冷たさ」の裏に「熱意」がある。対して、それ以下の世代の「若い人」には「熱意」*1だけがある。前者の80年代的感覚の世代的な「わかりにくさ」は、後発世代にはうまくわかってもらえないかもしれない、と。
 でも「同世代以外には、多分に誤解が生まれやすい余地がある」「多分、そのわかりにくさは、八十年代という無惨な時代を生きてきたために刻印されたものじゃないか」とあるけど、ぼくは稲葉さんの感覚への違和=抵抗を、世代論とは違う形で述べた(例えば《ぼくはそれを「八〇年代的」と封じ込めるつもりはない。何故ならそんなジャパンな心性は今のぼくらにも確実にウィルス的に転移しているから》と書いた)。その違和感を、例えば稲葉さんの文体(日本語使用法)の問題として、事細かに摘出した。端的にそれは「わかりにくい」というより、ジャパンに住む人間にはかなり「わかりやすい」ものではないか。率直にそう感じた。*2
 ぼくは世代感覚・世代論を全否定はしないが、それは「同世代にはわかってもらえる」「違う世代にはわかってもらえない」云々とは別の感覚ではないかと感じる。ぼくはフリーター論もたんに世代論のみでは考えていない。若年フリーター階層にはバブル(とその崩壊)期の世代拘束性と斜陽感は拭いがたくあるが、テーゼ(http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20050911)でもその点は述べたが、問題の核はその水準を突き抜けていくはずだと考える。必要なのは「客観的に切れかけているものを自分から切断する力を持つようになるための自己鍛錬」(中野重治「風習の考え方」)ではないか。【追記】一部文章のわかりにくい部分をわかりやすく改めた(同日夜)。

*1:これは小泉支持者の急進的な「熱さ」へと(やや曖昧に)重ねあわされる

*2:【追記】肝心な点を付け加え忘れたけど、仲俣さんの批評のコアも、それらのわかりやすさとは別の場所にあると思う。その点は別の場所で少し書きました(http://www5c.biglobe.ne.jp/~sugita/nikki.htm、2004年12月25日)。