小泉義之「無力な者に(代わって)訴える」(『別冊情況』2005年9月「レーニン〈再見〉」)

 すごい。哲学はこうでなくちゃ。読んでみて下さい。


 天皇主権も国民主権も根は同じであり、「憲法」の存在自体に無能力(disability)への排除がある、と明晰に書く。13条(幸福追求権)や25条(生存権)だろうと同じであり、それは無能力者を排除し、「国民」やら「市民」の権利のみを書き込む。
 同じ理由から、人間の初期状態に都合よく一定の能力を持った「人間」を設定し、そこからあれこれ瑣末な議論を展開する社会契約論も、無能力者の生存のためにはまるで役に立たない、とする。良心の痛みを緩和するためか、せいぜい保険理論や道徳理論で、無能力者への「慈善」を補完的に導入する程度だ。
ぼくも社会契約論には、その議論の前提にも議論の手続きにもうまく「入る」ことが出来ないし、素朴だが根の深い違和感を何度か述べたが、その違和感が、憲法(の条件)への批判、市民概念(の条件)への批判までは突き抜けていなかったし、今もそんなラディカルさには深く同意し切れない部分が残る。その揺らぎについては考え直したい。


 ならば、尋ねよう。車椅子抜きでは動けない人間、人工呼吸器を使用する人間、病院や施設に拘束されている人間がいる。そんな人間の移動の自由を確保するために、何が必要になるかを諸君は真剣に考えたことがあるのか。小手先の改良で済むなどと思っているのか。本当に心の底から、そんな人間たちに、青空を眺める自由を確保するべきだと考えているのか。そもそも、諸君は、自由と潜在能力について本気で考えてきたのか。いつだって現状の政治経済とのトレード・オフを口実にして誤魔化し続けてきたのではないのか。


 われわれが願っているのは奇跡である。車椅子がスポーツカーよりも速く移動すること、医療機器がポータブルになること、指先の動きだけで意志が伝わること、目蓋の動きだけで武器を破壊できること、受肉の奇跡を肉体のいたるところで引き起こすこと、要するに、無力な者に力を賦与することである。われわれが為すべきは、こんな奇跡のために、政治経済を本気で変更することなのだ。


 例えば、水飲み場は無料である。ならば、無料食堂が設置されるべきである。無料人口経管栄養補給所、無料人工呼吸器提供場所も、水飲み場の数だけ設置されるべきである。現代の文化と文明に見合った「食物」の「分かち合い」が制度化されるべきである。そのための場所ならいくらでもある。学校、役所、公園を使えばよい。そのための人的資本ならいくらでもある。官僚、公務員、児童・生徒・学生を使えばよい。そして、少し考えればわかることだが、こんな簡単なことですら、憲法改正や政治経済改良程度では実現不可能である。



 そうだ、「こうでなくちゃならぬ」。