小さき者から



 ●以下は、3月18日夜に友人に送ったメール(に加筆修正したもの)です。時間が経ち、すでに事実認識が違ってきているところもありますが、一つの記録として、残しておきます。


 日増しに東北関東大震災(注・その後公式には「東日本大震災」となった)の死者数・行方不明者数が増え、被災地の状況も悪化していきますね。急激な円高と国内経済の悪化も、今後は、致命傷になりかねないそうです。震災を理由にした給与未払いや非正規労働者の切り捨てもはじまっているようです。何より、福島第一原発の状況が、底無しに(じわじわと、穴吊るし的に)悪くなっていく。●●さんや●●以外にも、●●さん、●●さんも関東圏から疎開しました。アパートの隣りの中国人親子も、間もなく、中国へ退避するそうです。淋しい。不穏です。疎開とか被曝とか、あたかも戦時中のような言葉が飛び交いますね。ただ、物書きとしての僕らの業界で言えば、まだまだ相対的な安全圏にいるのに、「震災で世界が変わった」「自分も変わらねば」「日本人の新しい希望はここから始まる」などなどと言ってみたくなるのは、地に足のつかない「知識人・文化人」たちの悪癖なのでしょう。僕らの言葉や態度も、同じことです。本当はそこには、今まで隠蔽されてきたもの(地方への負担の押し付け、下層労働者差別、資本主義の暴力、無能力者の排除、性暴力の不可視化、等)が震災や原発危機によって激しく露呈しただけかもしれないのに。
 それにしても、何という世界なんだろう。
 僕らには移動する自由がある。国境を超える自由がある。別に「逃げた」「疎開」と名付けることもない。関東圏は科学的に安心・安全だと信じても、仲間と共にいたいと考えても、被曝を避けて関西・九州・外国へと移動しても、何でもいい。現時点では、何が正しいのかは、誰にもわからない。だから、他人の選択を裁いたり、責めたりしないほうがいい。
 問題はむしろ、逃げた人と逃げない人の間にではなく、国内や国境を自由に移動しうる人々と、それができない人々の間の非対称性にあると思います。そのことは、どんなに自覚的であろうとしても、十分すぎることはない。
 逃げられない人がいる。障害者も、高齢者も、子どもも、介護・介助が必要な家族や仲間と同居する人たちも、職務や生活費のために仕事を放棄できない人も、お金が無い人も。何より、相対的安全圏ではなく、原発事故の近隣や被災地で現に苦しむ人々、したくもない決断をしなければならない人々、雨に濡れ呼吸するほかない老人や子どもたち、現地で新しく産まれた乳飲み子たちがいる。僕らの「言葉」が始まるのは、(圧倒的な現実の中でまだそれらに意味があるなら)、何かを自発的に選べる自分たちと、選択肢自体を剥奪された人々の間の落差の、強い自覚――どんなに努力しても自分の認識と現実が激しくずれ、断層し続けてしまう、という根源的な失語、沈黙――からではないか。
 僕が勤めるNPO法人には、人工呼吸器を使っている人や子どもが少なからずいるのですが、ほぼ全員が、入院か計画停電時の在宅対応の体制を迅速に取れた様子で、良かったと思う。僕も先日、気になって、迷惑なだけかもしれないけど、電話が通じないので、自分が毎週ヘルパーに通っているALSの青年を訪問し、無事を確認した。よかった。でも24時間、先の状況がみえない中、当事者たちの心労がどれほどのものか。
 本音をいえば、不安はあります。「安心・安全だ」と「危険だ、逃げねば」の間で、ずっと揺らいでいる。
 理性的には「安心・安全」(もちろん今後の推移次第でどうなるかは素人の僕にはわかりませんが。現時点では)と信じつつ、感情的には「最悪の事態もあるかもな」と思ってしまっている。数時間毎に、感覚がシーソーのように揺れ動く。不安・恐怖よりも、この生活の「疲れ」こそが、致命的に僕らの精神を損壊していくのかもしれない。
 先日、知り合いから「逃げろ。君はともかく、子どもが可哀想じゃないか」と電話があった。でも断った。なぜ逃げないのか。動けないのか。
 自分の身一つなら、放射線(能)の被曝や汚染に関してこんなに不安になりはしないでしょう。でも子供だけは。どうしてもそれがある。食料品やガソリンやオムツを(非理性的と分かりつつ)買い占めてしまう、という心理にも「子供のため」「家族のため」が少なからずある。やはり私的所有や資本主義の根がこの辺にあるのではないか。
 すると、自分の生命よりも大切な、愛する子どもの「ために」こそ、しかも具体的で卑近な場所で、第三者や遠隔の他人たちへと所有や住居や交換を開く、とは、どういうことなんだろう。
 もちろん、状況がさらに悪化すれば、僕らも川崎市から避難する、最悪子どもだけは逃がす、という選択肢を具体的に考え始めるでしょう。たとえば仮に、仮にですが、一〇年後に自分の子どもが今回の件と全く無関係に甲状腺ガンや白血病を発病したら、僕らは「なぜあの時、子どもを護れなかったのか」という苦しみを課せられるはずです。それも含めて原子力というものの「被害」であり「リスク」であるはずです。
 その上で、僕は、子どもに、何かを伝えたかった。
 金銭的・仕事的・障害的に逃げられない仲間たちが、かたわらにいる限り、逃げない。そうしよう。逃げるなら、できうるかぎり、彼らと一緒に全力で逃げる。そういう努力をしよう。「運命を共にする」なんてカッコいい覚悟じゃない。卑しくても醜くても、共に生き延びあう、という道を選ぼう。
 頑張れ、とは言わない。僕も頑張る。一緒に頑張ろう。君よりさらに頑張れない状況にありながらなお頑張っている子どもたちと一緒に頑張ろう。
 もちろん、大人と胎児・乳幼児・子どもの間には健康リスクの大きな非対称性がある。のみならず親子関係には必ず権力的・暴力的な関係が生じる。だから、僕の考えや発言自体に潜む暴力(死の贈与)を避けられない。それでも、だからこそ、今、僕は祈る。君(ら)こそが、そういう人間であってくれ、と。君は生まれつき小さい。病弱だ。微妙なハンディがある。でも君が人としてこの先の長い人生をじゅうぜんに育つのに足る愛情や滋養を、日頃から、僕や周囲の人間は君に懸命に(ということは人並みに)注いできたつもりだし、これからもそうする。過剰な期待や英才教育ではなく、当たり前の生活態度を通して(君の育児を続けながら、僕らは全員が、むしろ自分自身に向き合うこと、無償の贈与やケアを受け続けてきた自分の宿命的な弱さを覚醒的に開き直すこと、「家族とは何か」「自分に固有のdisabilityを通した関係の再契約とは何か」を問うこと等を、各自に必要なやり方で必要な時間をかけて強いられてきた)。
 もちろん、そういう大人たちの身勝手な期待やぎりぎりの祈りさえ超えて、先へ先へ、明日へ明日へと、新世界に漕ぎ出ていくのが、まさに「子ども」たちなのだろうけれど。
 君らに僕の言葉が偶々届くのかどうか、そのとき僕がどこで何をしているのか、すでにこの世にいないのかどうか、知らない。でも届くにせよ届かないにせよ、君らが僕の言葉の未熟さを冷笑・憫笑・嘲笑するにせよ、君たちが自分の周りの、君たちより遥かに深くその無垢な生命を汚染され犯された子どもたち、親や兄弟を失った子どもたちのことを、自然に想像できる人間でいてくれていますように。この広い世界の人間たちの能力・努力・才能の凄さに驚嘆しつつ、君がそれに負けぬよう可能な努力を終生続けつつ、そこからなお、弱い者がより弱いものを叩き続けざるをえないこの世界をありのままに見詰め、失語し、なお他者たちと分かち合えない傷や痛みを分かち合っていく、そのことで自分がようやく生き延びられる、そんな人間に成長し発達することを、君らが何歳だろうが如何なる過酷な環境だろうが自らを今・ここから生かし直せる人間であることを、僕(ら)の貧弱な想像を遥かに超えることを、今僕は心から望む。
 現時点ですら、僕らは根源的な不安を既に内部被曝している。今後僕らは、子どもたちに与える水や食べ物に関して、どんなに安心・安全が保障されても、神経を削る消耗戦が長く長く続く。そういう日々が長く長く続くだろう。君たちに全く罪のないことで君たちの人生がその始まりから、本来の健康や寿命に致命的な痛手を負ったのかもしれなかった。何て悲惨なんだ。何て暗鬱な世界なんだ。それが歴史的にチェルノブイリ水俣周辺その他で「よくあること」だったとしても、君らが「日本国」「関東圏」の恩恵をその誕生の瞬間から与ったとしても、やはりそれは、悲惨であり、災厄なのだと思う。原発をめぐる利権・政治・情報隠蔽を叩くだけでは終らない。現在の大量生産・大量消費・大量廃棄をデフォルトとした社会や生活設計(適度な快楽、適度な道徳観、適度な幸福)のエコノミーを維持強化してきた僕らは、たとえ今の生活水準に総合的にはどんな善さがあるのであれ、いやだからこそ、今までの無知と無行動を悔やんでも悔やみきれぬ。
 平時は何事にも無関心な自分を思い知りつつ、見かけは「自然災害」だが実は不公平で非対称なこの現実について、「考える」ことはできる、いや、自分の足場ごと「問い直す」ことが。
 両親のアパートが一室空いていたので、先日●●という団体に、東北地方の母子の疎開先に自由に使って下さい、と連絡を取りました。両親と話し合って決めました。一時避難でも短期入居でも何でもいい。もちろん、そういった提案に現実味があるのかわかりません。ただの自己満足かもしれない。逆に迷惑かもしれない(今後の行政支援や職業支援を受けづらくなる?)。そもそも川崎市の安全度すら素人の僕には確証がない。各都道府県では被災者の公営住宅等での受け入れをすでに表明していますし、被災地でも仮設住宅の設営が始まっていますが、20万人とも30万人とも言われる未曾有の規模の避難民がいる中、民間や個人の力で、住居のキャパや質を確保・底上げすることも必要になってくるのかもしれない。あるいは、僕らのような小規模ケースは、自閉症発達障害の子など、集団での共同生活が大変な子に無償解放するべきなのか。住居や空き部屋の無償開放運動、ルームシェアハウスシェア、行政+民間の協働の先が験されるのかもしれない。そもそも、両親の持ち家で、僕が直接身銭を切るのでもないから、本当に情けなく恥ずかしいばかりだけれど。
 今日(3月18日)は、3時間だけ、子どもを保育園に連れて行きました。高熱と地震が重なったので、2週間ぶりになりました。他の子たちと遊んで、楽しんでいたみたいです。帰る時、近所のマンションの前の公園で、休校中なのか、小学生くらいの子どもたちの群れが、笑いさざめきながら、必死にサッカーボールを追いかけていた。子どもたちの声が、青空に吸い込まれていった。抱っこした子どもが、指差して、何かに共鳴するように、ああ!と、声をあげた。それが、僕にとって、地震以降の一週間の中で、一番励まされ、安心する光景だった。あの子たちや、商店街や駅前で仕事を続ける人々と比べるとき、僕らの言葉や行動は、何て皮相なところを上滑っているんだろう。そう思った。でも、こうしている今も、泣き、病み、飢え、死んでいく被災地の子どもたち、そして世界中の子どもたちがいる。
 わからない。
 僕には何もわからない。(2011年3月18日@川崎。4月7日加筆。)