NHKのドキュメント「フリーター漂流――モノ作りの現場で」



 フリーター論を書き進めながら、やや煮詰まり、この番組(二〇〇五年二月五日放送)のメモをまとめたくなった。五日の放送時に一度、関西でもビデオでもう一度見ました。
 ネット上でもかなりの反響を呼んだし、ぼくの周りでも、色々と話題になり議論になりました。


 番組は、北海道に住む3人のフリーター男性にフォーカスを当てる。


 (1)中卒後、アルバイトを転々とする中で学歴社会の壁に突き当り、通信で高卒資格を取るため勉強し、アパレル業界で働くことを目指す21歳の男性。
 (2)69歳の父親と64歳の母親と共に地元で運送業をしていたが、不況に伴い稼ぎが激減し、別の場で働かざるをえなくなった35歳の男性。
 (3)22歳の女性と結婚した25歳の男性。スキルも統率力もあり、まじめで有能だが、本当にやりたいことが見つかるまで妥協したくないと考えており、妻を連れて工場へやって来た。


 おそらく失業率の高い北海道を中心に取材されたのでしょうが、実際に選ばれたこの三人の組み合わせは、かなり練り込まれ考え抜かれた形で配置されている、と感じました。三人ともそれぞれに強い個性がありキャラが立っていて、簡単にどの人物が一番過酷な状況にあるのか?うかつには言えない。逆にいえば、ぼくらが暗黙に抱いている「フリーター」のイメージが、よくよく見ていくと、彼らの存在に関しては成り立たない。思い込みが崩されてしまう。(1)の男性も、表面的に見るといかにもやる気のない甘えた若者に見えるのですが、中卒の人を強いる過酷さや、あの何もかもに苛立ち耐え続けてきたような無表情、そしてお母さんとの緊張をはらんだ忍従の関係、それらを「今時の若者」のイメージで片付けることは出来そうにない。(2)(3)の男性にも、やはりそれぞれに不思議さがある。


 ぼくには、この番組の内容は、フリーターの実情のシフトウェイト、ある種の地殻変動を象徴しているように感じられました。


 ――実際、最初にこの番組をみた印象は、下請け工場での過酷な単純労働に従事するかれらの存在を、果たして「フリーター」と呼べるのだろうか?というものでした。


 一九八〇年代半ば〜九〇年代型のフリーターから、九五年〜二〇〇〇年型のフリーターへ。前者が正規雇用を嫌い「あえて」フリーターになる人々だったとすれば、後者は正職員になりたくてもなれない、「どうしようもなく」フリーターであらざるを得ない人々。もちろん、八〇年代半ばにも後者型のフリーターはいたし、現在も「あえて」型フリーターはいるでしょう(実際(3)の若者は、少なくとも彼自身の意識の上では、このタイプです)。単純にA→Bとは言えない。ただ、その中身のバランスがゆっくりと変質してきた。


 二〇〇四年三月に、派遣労働者法が改正され、製造業の分野へも労働者の派遣が認められるようになりました。
 これはフリーターの雇用環境にとっても、すごく大きな変化でした。
 製造関係のメーカーは、台頭する中国などとの価格競争にかちぬくため、安価で・出し入れ可能で・使い回しの簡単な、フレキシブルな労働力を大量に必要としている。モノの製造の過程は、実際はほとんどがオートメーション化されています。しかし、例えば携帯の組み立てなどは変化が激しく、機械化では採算が合わない。この変動の大きい部分に、フリーターの安い労働力が補填的に投入されるわけですね。
 「請負会社」と言われる人材派遣のセンターが、全国から大量のフリーターを集め、全国のモノ作りの現場へフリーターを振り分けています。番組によれば、請負業者から全国に派遣され、下請けの工場などで単純労働に従事するフリーター層は、すでに一〇〇万人(!)を超える。全国で一万業者が参入し、年間1兆円の市場。全くピンハネですね。例えばある工場では時給九〇〇円で、経歴や学歴は一切必要なし。請負会社の担当者ははっきりと、フリーターは「雇用の調整弁」だ、と言い切りました、その部分はフリーターでじゅうぶんだ、と。「毎日が戦争。一名でも多くタマを送りたい」とまで言いました。この比喩はかなり正確な気がします――フリーターは戦場=工場へ送り込まれる生きた兵士=戦力ですらなく、いくらでも補給の可能な単なる「弾丸」=物資なわけです。実際、使用側からすれば、便利に切り捨て・調整・使い回しが出来るだけじゃなく、人件費は正規雇用の約2分の1ですむ。
 仕事の内容も、全く日雇い労働そのもので、バスに積み込まれ職場に向うフリーター達の姿は、季節労働者/出稼ぎ労働者のようでした。
  数日で仕事の内容や場所が変わり、リセットされる。各地の工場を転々として。若者達の2分の1は、契約期間(6ヶ月)前にやめていくそうです・・・。


 その上で気になったのは、むしろ3人の男性たちの背後に見える女性労働者たちの姿でした。若い女性の割合がかなり多い。しかも、これ自体が悪しきイメージなのかもしれないが、工場での過酷な単純労働者にはあまり見えないような女性たちの姿が多く見られる。
 この番組は、「フリーター=若年男性」というイメージにとらわれていたため、女性フリーター達の姿に焦点を合わせきれなかったのかもしれません。


 フリーターの問題は、本質的に女性労働者の問題で、七〇年代以降のパート女性労働者が強いられてきたポジションに、若年男性労働者がなだれおちて入り込んできた時、はじめて「社会問題」とされたわけです。女性労働者と同じような(厳密にはなお同じではない)条件で働く他なくなった若年の男性労働者たち。
 このことは国際的な水準でもいえます。日本人がアジアなど外国の労働者に強いていた状況が、国内の若年労働市場へ逆流してきた。第三世界が国内化してきた。おもにぼくら男性フリーターが、その事実に直面して慌てている。


 しかし、下請け工場等で働くフリーターはすでに一〇〇万人、という数字には本当に驚いた。
 フリーターの総数は三〇〇〜五〇〇万人と言われる。すると、三分の一から五分の一がかれらのような状況にある試算になる(ぼくは数年前、警備員で半年間働いていたが、警備業は法的にも内容的にも日雇い労働で、不安定さ/立場の弱さ/保障の無さに関しては全く同じだった)。若年労働層を強いるこれらの底のぬけていく状況を、たんに《フリーター問題》とくくることさえ、ためらわれる。


 いまは正職員/フリーター/ニート/ひきこもり/若年野宿者……など、若年層をくくる言葉がいびつなかたちで細分化され、どちらがマシか?的な足の引っ張り合いの悪循環におちいりがちだけれど、《現実》の複雑さをトータルに、包括的に捉える言葉が別の形で必要なのかも知れない。
 《フリーター》という言葉をまずはおしひろげたほうがよいのかもしれません。流動する現実の過酷さに見合ったものへこの言葉を鍛えあげ、そのポテンシャルをひきだせないだろうか・・。