研究集会<死の法>

 研究集会<死の法>(http://www.arsvi.com/0p/et-20063.htm)をききに行った*1
 安楽死尊厳死に関しては考えなきゃいけないこと、考える前に知らなきゃいけないことが、あまりにもたくさんある。
 今後色々調べるし、色々考える。それで「よい死!研究会」(http://www.arsvi.com/0a/y01.htm)のMLにも、参加させてもらった。
 その前に、会場で皆さんの話をききながらぼんやり考えたことを、まずはノートとしてまとめる。そこから始める。


 川崎市には入所施設が極端に少ない。特に重症心身障害児者の入所施設は、長い間、一箇所もなかった。昨年ようやく重症児施設ソレイユ川崎が細山に出来た(が、自立支援法成立と児童福祉法の改正に伴い、重症児の位置づけは変わる――どう変わるかはよくわからない)。その分、というか、川崎市では、重症児の在宅生活とサポート体制が良くも悪くも進んできた面があったようすだ。十分だったわけではないけど。人工呼吸器をはじめ様々な医療的ケアを常時必要とする人々が自宅で生活を続けている。しかし当然、そのぶん、家族への負担も大きい。いま自分が勤めるNPO法人も、そんな重症児家族へのファミリーサポートから始まった。当然互助的性格もある。重症児の母親、元母親が、その後ヘルパーになるケースも多い。


 自分が安楽死尊厳死のことに始めて身近なリアリティを感じたのは、それを肯定する法案が暗黙のうちに人工呼吸器や経管栄養をつけている人々をそのターゲットにおいている、という話を聞いてからだった。その意味では、ぼくは、安楽死尊厳死にまつわる問題を、昔から考えていたわけでは少しもない。


 日本尊厳死協会が提出した「尊厳死に関する法律要綱案」(2003年12月1日)をみると*2、まず、死の自己決定権を本人に認めている。
そして尊厳死の条件は「不治且つ末期の状態にあって延命措置を望まない者の意志を尊重する」とある。しかし、死の間際には既に自分の「意思」をはっきり表明できない人もいる。それで「持続的植物状態においても、あらかじめ、かかる場合の延命措置を断る明示の意思表明がある場合の措置も本法に依る」とある。事前指示書/リビングウィルなどが念頭に置かれている(ちなみにこの両者の区別の大切さを、川口氏が強調していた)。「延命措置」が、はっきりと拒絶されている。「延命措置」とは、「その措置によって不治且つ末期の患者の死期を単に延長するにすぎない措置」とされる。ここには「苦痛緩和のための措置」は含まれない。つまり、苦痛緩和の治療は肯定される(ちなみにここでは一貫して延命の「措置」と言われ、「治療」とは言われていない)。


 第三条の「本人の延命措置を拒否する意思の表明」には、「十五歳以上で、意思能力のある者」とある。
 すると、法律上の「意思能力」を考えたら、知的障害者や重心の人々などは尊厳死法の適用対象に含まれない、のだろうか?*3
要綱だけをみれば、そうなる(だからそれ以外の人に適応されていい、と言ってはいない)。
 しかし、尊厳死法案は明に暗に、例えば、植物状態遷延性意識障害)の人のみならず、認知症の人を念頭においているとも言われる。もっと露骨にはこうもいわれる、本音にあるのは「無駄に」(!)「生き続けている人」の問題、例えばスパゲティー症候群などとも言われる「無駄な」「高額医療」の問題なのだ、と。
 こうなると、話は簡単ではいかなくなる。本人の意思決定だけでは片付かない部分、他殺の部分が出てくる。すると、そこは簡単に切り分けられないのだろうか。
 どうなんだろう。


 安楽死尊厳死の問題を語る時、本人の立場を想定して、しばしば「不治/末期/激痛」が語られる。しかし、立岩真也はいう――、この世に「不治」の状態はいくらでもある。例えば障害者の一定部分は「不治」の状態にある。すると「不治」では何も言っていないに等しい。次に「末期」について。これはよくわからない。まず「末期」の定義がわからない。そしてかりに本当に末期であっても、それが末期であるなら、何も急いで死ぬ理由がわからない。放っておいても、まもなく亡くなる人なのだ。すると「激痛」のことが残る。これは大きい。しかし、現在は痛みの緩和の治療、ペインクリニックその他が発達している。WHOの調査では、ガンの痛みの8〜9割はなんとかなるという(ただし、日本ではそうなっていない)。すると、痛みの問題は、痛みの除去の問題として語られてよいのではないか。シンプルに、そう考えられる。


 すると自己決定の基本問題としても、「不治/末期/激痛」は、安楽死尊厳死の肯定を導かない、ことになる、といえるのかどうか。


 すると、ここに残るのは、(1)医療経済上の問題、と(2)家族への迷惑の問題、が大きい、のだろうか。
 例えば、経済状態が改善し、医療の財源が十分に確保されれば、尊厳死安楽死の問題は解決される、といえるだろうか。もちろん、いえそうにない。すると、医療経済の問題、財源の問題の大事さと同時に、それだけではないものがいることになる。 ここを、忘れないでおこう。


 しかし、現場のレベルでは、法案が成立する・しないにかかわらず、「安楽死尊厳死的な死」は、つねにすでに、いまも生じ続けている。これを忘れないようにしよう。ALSの人で人工呼吸器を付ける人は3割だと言われる(女性はもっと少ない)が、すると7割の人はその時点で死んでいる。これは消極的安楽死と呼ばれる。なし崩しもあれば、本人の強い意志の場合もある。しかし、そんなに明白に自己決定/他者の強制/周りの空気・・などを切り離せない場合もたくさんある。例えば重症児が、病院で、入所施設で、徐々に呼吸や栄養状態を悪くされていく。これは誰もが言う。研究集会の場でも、当事者親の口からそれが述べられた。「じわじわと」という言い方もされた。するとそこでは積極的安楽死/消極的安楽死の区別ばかりか、自己決定/他者による強制の区別もあいまい、なのだろうか。自然な流れを装った死、じわじわと与えられていく死、現場の空気の中で「仕方ないよね」とされていく死。
 しかもそれが、家族の責任の問題、家族の選択の問題へと押し込められていく。わが子の死を、家族の死を、家族が「選ばされる」。家族の意思決定を支えるための支援は殆どない、と川口さんが述べていた。少なくとも日本の現状では、このことは甘くみられない。時に「これからの家族の介護が大変だよ」と言われる。時に「本人がかわいそうだよ」と言われる。「これ以上本人を生かそうとするのは親のエゴだよ」と言われた、という母親もある。いくらでもあるだろう。なし崩しの死と、なし崩しの家族責任。
 すると、こんななし崩しの死を否定するなら、この「自然な流れ」(の装い)に食い込んでいく必要も、あるんだろうか。


 たとえば・・。在宅のALS者が必要とする介助の時間について、川口さんたちが調査している。一日24時間を超える時間数が必要だとわかったという。こういったデータ化が方法の一つとして大事な気がする。ある程度のQOLを確保するには、月額450万円が必要だ、と行政に主張したという。そんなに財源はない、と言われ、「バナナの叩き売りのように」額が下げられていった。こんな試みが全てだとか一番大事だとかいわないが、必要な試みとしてある。身体障害者の在宅生活も、こんな試みが出来る気がする(というか、自分が知らないだけで、データがあるかもしれないし、あるだろう)。身体介護・家事援助とはだいぶ違う、知的障害者精神障害者の場合は、相談部分や見守りや危機回避などがあり、ずいぶんデータ化が難しい部分もあると思うが、どうだろうか。そうでもないんだろうか。またそれらの人々では、経済学上の方法論的な「生活モデル」を抽出しにくいという事情もあるかもしれない(脳性マヒ者などでは自立生活モデルが役立つ気がする)。しかし、実際はそうでもないかもしれないが、わからない。


「じわじわの死」を考える時、お金の問題、生活費の問題は甘くみられない。
 日本では家族と福祉が切り分けられない。家族の負担はどれくらいなのだろう。例えば家族福祉の部分に(家族手当という形ではなく、ヘルパーなどと同額として)賃金が支払われるとしたら、障害者の家族はどれくらいお金持ちになっているのだろう。そうでもないのか。その辺が知りたい。


 「障害者と親は最大の敵」という文脈がある。それを承知で以下を言う。
 「家族介護の負担を軽くする」こと。これを絶対的命題の一つとすることで、尊厳死安楽死の問題の一端に、切り込めないだろうか。(これは「介護の社会化」と同じことを述べているのか、どうか。)


 ・・。




 【追記】


 上のエントリーはもともとmixiにアップされたものです。そのコメント欄を転載。


2006年03月28日
07:31
ajisun


 sugitaさん、おはようございます。襟を正して読みました。重症患児や後発のALSなどの治療決定権は家族や(ALSの場合は親しい人も含めて)にあると言ってもいい。とすると、仮にHMV家族の成立条件には家族介護があると言えませんか。障害者の場合は家族による介護の「囲い込み」といわれる状況があるようですが、ALSの場合はむしろ反対で、患者は元気だった頃の遺産としての家族を手放しませんし、家族介護だけを期待し、家族を介護に縛りつけます。だから、意思決定に際しては、家族をまず社会的に支えないと患者は生きられないともいえます。家族が呼吸器装着の前にくたくたになってしまうと、患者は遠慮して呼吸器をつけられなくなるし、また、家族もとてもやっていけないと思って積極的に生を支持できなくなってしまう。このあたりを上手に書けたらと思うのですが、いい案ないですか?
 報道は・・・個人的に関心がなければステレオタイプな報道しかしませんね。ちょっとがっくりしていたけど、ここ読んで力が沸いたわ。ありがとう。本当に・・。


2006年03月29日
00:17
sugita


 こんばんは。「ザ・ワイド」ひどかったみたいっすね。
 親による障害児の「囲い込み」は、身体障害者と重症児でもまたちょっと違う印象はあります。前者の場合「自立の最大の敵は親の愛」とか言われるけど、全国組織の「重心を守る会」でも言われているように、重症児の場合、親が代弁しないと子どもはすぐ死ぬわけです。長い長い介護状況が作り出す独自の親子の磁場を「共依存」などとうかつに呼んでいいものかどうか。躊躇があります。別の言葉が必要なのかも。子と親がじわじわと消耗していく状況を社会的に強いられてある現実、を的確にあらわすような別の言葉が(ほんと社会的なブラックホールっていう印象ですが――うちの事業所などにつながったケースはまだましなわけで)。
 ぼくの担当しているALSの人は、本人の年齢から来る身体的特性や、それからTLS状態に近い段階で関わったタイミングのせいもあるかもしれないけど、「強力エゴイズム」タイプというより、重症児のそれにちょっと似ている感じもありました。「在宅重度障害者としてのALS患者の実態とニーズに関する研究」のファイル、受け取りました。こちらこそ「襟を正して」拝読せねばなりませぬ・・。取り急ぎ、こちらこそお礼を!




 ★射水市民病院での人工呼吸器取り外し事件については、こちら(→http://www.arsvi.com/0p/et-2006i.htm)を!

*1:当日・事後の記録が翌日に早くも「良い死・9」(http://www.arsvi.com/0w/ts02/2006049.htm)としてアップされていた。書くの超早!

*2:2005年1月の「骨子案」との比較は、また別に行う。

*3:http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20060327に「これは患者側から見た「尊厳死」の事例ではなく、その患者に対する「慈悲殺」(mercy killing)の事例だと思うのです。その意味でこの「尊厳死疑惑」という言葉には強い違和感を感じます」とあるのを読み、「慈悲殺」のことを思い出した。そのあとにこうある。《「安楽死」(euthanasia)という言葉は、ギリシア語のeu (良い) とthanatos (死)を組み合わせた語です*2。この語が用いられる以前、伝統的に欧米では「慈悲殺」(mercy killing)という言葉で苦しむ病者・負傷者の死に対する対応が問われてきました。/これが苦痛からの解放を求める「患者側」の視点で考えられるようになったとき(それはある意味医師・処置者の責任を曖昧化することにつながったと感じますが)「安楽死」という言葉にとって変わられ、さらに「死ぬ権利」(right to die)という考え方が出てきて、患者の側の価値観を中心とした安楽死観念「尊厳死」(death with dignity)が言われるようになったという経緯があります。/また「安楽死」という概念は広義に、慈悲殺や自殺幇助的な「作為としての積極的安楽死」と治療停止など死の容認(allowing to die)による「不作為としての消極的安楽死」の双方を含みます。そしていわゆる植物状態の患者などに対しての延命治療の停止などは「尊厳死」と呼びならわされるようにもなっていて、「慈悲殺」・「安楽死」・「尊厳死」のそれぞれの概念は内包するものがはっきり切り分けられる関係にはないのです》。